現代の祭

東京にはその地域の人しか知らないような小さな祭りがたくさん存在している。
圧倒的に都市化され、地方からの流入者(私もその一人)が増大したこの街では、もはや土地に根ざしたコミュニティなどどこにも存在しないように見える。にもかかわらず、この街には多くの祭りがある。それはとても不思議なことであると同時に、とても貴重なことだと思う。

祭りの瞬間、日常が破砕され、都市は祝祭の空間に変貌する。だが、その力は、都市の全てに及ぶわけではない。他の街か来た車が通る大通りでは、神輿は信号を守らざるを得ない。赤信号を前に、セイヤセイヤと叫びながら、足踏みをするのだ。そうして、交通規制をしつつも車が通り過ぎていく車道を、神輿を担いだ一団が時速5km(推定)で進んでいくのである。それはたまたま通りがかった祭りに関係のない通行人からすれば、とても不思議な光景だ。彼ら通行人の日常は続いており、それは脇で行われている祭りによって破られることはない。彼らはただ、呆然とそれを眺めているだけだ。

かつて、祭とは慣習に縛られた地域コミュニティが日常の中で溜まっていく鬱屈やしこりを定期的に吹き飛ばすための無礼講の場、祝祭(カーニバル)の場であった。その瞬間だけは、日常の法が無効化され、禁忌(タブー)が撤廃され、一時的なカオスがコミュニティを包み込むのである。そうしたカーニバルが日常生活に収まりきらない人間の過剰な部分を消尽するからこそ、日常世界が崩壊せずに維持されていたのである。(類似したテーマはマトリックス3部作にもあった。)

これに対し、現代の祭は街の一部を変貌させるけれど、そのシステムを無効化して、全てを包み込むことはできない。でも、そのことがむしろ、現代の都市ならではの祭のあり方であるようにも思う。祭のカオスはもはや都市を覆すことができない。そして、祭の参加者は、すぐ側で日常的な生活が行われていることを知っていながら、祭に没頭しようとする。何所かで覚めた意識を持ちつつも、それにあえてのめり込むのだ。社会学者の宮台真司なら、「アイロニカルな没入」と呼ぶであろう事態がそこにはある。おそらく資本主義とともに巨大化したこの社会は、もはや祭といった発散の場がなくても継続していくのだろう。でも、何もないよりはいい。消費されることを目的に日々メディアによって配布される様々なスペクタクルよりも、自分達の汗と怒号にまみれるのほうが多分いい。終わりなき日常を、情報を消費しながらまったりと生き続けるよりは、そうした日常の破れ目が見える場に立ち会える方がずっといいはずだ。


そんなどうでもいいことを考えながら、とりあえず、地元(?)の祭で神輿を担いでみた。とにかく、肩が痛い。