中東の砂漠/

    

2007年の12月の中旬、中東のドバイの砂漠に立っていた。人生で初の砂漠体験である。中東の砂漠の砂は、よく写真で見るようなサハラの砂漠の砂とは違っていて、少し赤茶色をしていた。それは海岸の砂よりも随分と細かく、風が吹く度に眼前で音もなく崩れ落ち、その姿を変えていった。


そもそも砂というのはそもそも厳密には特定の物質の概念ではない。それは岩石の破片の集合体であり、直径は2mm〜1/16mmまでのものをさす。岩石と粘土の中間を砂と呼ぶのだ。そして、砂とは岩石の破砕物中、流体によってもっとも移動させられやすい岩石の粒子のことを指すのだ。


これは阿部公房の「砂の女」からの抜粋したものだ。ドバイの砂漠を眺めながら、ふと、この小説のことを思い出していた。「砂の女」は砂漠に捕らえられ、そこからの逃亡を試み、失敗して再び捕らえられ、いつしかそれを受け入れる男の物語だった。つまるところ「砂の女」での砂漠は逃亡が可能なのもの、つまり縁(エッジ)を持つあくまで有限なものだった。だが、ここに広がる風景はそれとは異なっている。まさに世界の果てまでが砂なのだ。


砂漠を体で感じるため、気球による砂漠のツアーに参加してみた。ここにある写真は全て気球から撮ったものだ。地上300mから見下ろす砂漠は地平線のかなたまで果てしなく広がっている。その全てが、風が吹くたびに崩れ、波うち、その姿を少しずつ変えていくのだ。


全てが流れ、移ろい、崩れ去っていく。そしてその全てがやがて砂に飲み込まれていく。そこでは人間は必然的に自らの無力さと有限性を自覚せざるを得ない。そしてそこで築かれる人の営みは、まさしく砂上の楼閣のごとくはかないものでしかありえない。ユダヤ教キリスト教イスラム教、いわゆる父性宗教的な一神教が全てこの砂漠の地から生まれたことはなかなか興味深い。全てを風化させ、飲み込んでいくような砂漠にあって自然崇拝/アニミズムはありえない。そこでは神は自らのうちにしか宿りえないのである。


圧倒的なまでに広がる砂漠を前に、頭では分かっていたつもりのそうした現実を体全体で学んだ気がした。得がたい体験であった。