マーク・ロスコ/世界の向こう側を見た画家

ktsytkyk2006-08-20


千葉、佐倉の川村記念美術館には、ロスコ・ルームと呼ばれる部屋がある。
ロスコとは、キャンバスを矩形に塗り分けた抽象画で有名な現代抽象画家マーク・ロスコ(1903-70)のこと。
ロスコ・ルームには、ロスコの巨大な暗い画面の絵画が何点も掛けられており、崇高でどこか畏怖すら覚える雰囲気をたたえている。(同様の部屋はロンドンのテート・モダンにもある。)

ロスコの巨大な絵画は、その巨大さで見る人の視野を占領し、見る人を絵画の中へと連れ込んでいく。ロスコの絵画は常に二色以上で塗り分けられるが、その色面は常に境界がぼやけており、輪郭がはっきりしないまま色彩が対比されている。そのことが見る人に絵画と距離感を喪失させ、形の認識ではなく、純粋に色の印象だけをもたらしていく。また、同系色や補色を対比的に用いることで、特定の色彩が上位に立って印象が固定されることがなく、いわば知覚が色の間を往復し続けるような効果を導き出している。

こんな風にロスコの絵画の効果を説明することはできる。でも、それらは、最も決定的な点、つまりなぜ芸術家がこのような絵画を描かずにはいられなかったのかを説明してはくれない。果たして、ロスコは絵画を通じて何を求めたのだろうか。

私見だが、ロスコは、色彩にのみこまれてぼんやりとした知覚の中で、この世界の向こう側を見ようとしていたように思う。言葉やイメージに埋め尽くされた世界から離れ、ただ、色彩の知覚だけに没入することで、世界の中にあって世界の向こう側に辿り着こうとしたのではないだろうか。
絵画によって、日常の世界に裂け目をつくりだし、自らの実存を揺さぶり、日常世界が覆い隠してしまった「語りえぬもの」(ラカンで言えば「現実界」)を見出していくこと。そのためにロスコはこのような絵画を描き続けたのではないか。


1970年、ロスコは自宅のバスルームで手首を切って、自らの命を絶った。

世界の向こう側で、果たして彼は何を見たのだろうか。

フィリッポ・ブルネレスキ フィレンツェの大聖堂 技術が時代を超えた建物

万能の人 ブルネレスキ
先日放映されたTBSの「世界遺産」はフィレンツェの歴史地区の特集だったのだが、本来歴史遺産か大自然の特集であるこの番組が、今回に限ってはルネサンスの建築家であるブルネレスキの特集であった。

トスカーナの大地全てに影を落とすといわれたフィレンツェの大聖堂のドーム。フィリッポ・ブルネレスキは、直径55m、最頂部で高さ100mをゆうに超えるこのドームをたった一人の力で実現させた。ドームの構造の発明はもちろんのこと、高さ60mの空中にドームを足場なしに組み上げる工法を発明し、レンガの積み方を発明し、工事に必要な道具まで発明したのである。建築家でありそして革新的な彫刻家でもあったブルネレスキはいわばルネサンスの「万能の人」であった。ルネサンスという時代はこのドームの建造をもって幕を開けたといってもよいだろう。後世になってミケランジェロがローマのサン・ピエトロ大聖堂の建設に携わった際、「あれより高くは作れるが、あれより美しく作ることはできない。」といったのは有名な逸話である。

さて、ブルネレスキの業績とその異能の才、そしてその歴史的意義については、美術史家 岡崎乾二郎氏の『ルネサンス 経験の条件』に詳しい。このこの上もなく美しい本もまた、より多くの人に知られるべき必読の書であると思う。それはミシェル・フーコーの『言葉と物』の美術版ともいえる本であり、そしてさらに広い問題提起を含む本だ。

ルネサンス 経験の条件』 出版社: 筑摩書房 ; ISBN: 4480873279

建築という他者

フィレンツェの大聖堂の内部は、後世に作られた装飾的な外観とはうって変わって非常にシンプルである。内部には同時代やその後の建築に見られるような装飾はされておらず、古典建築を見慣れた目には、何か物足りなさを覚えるくらいシンプルなのだ。元来、キリスト教の聖堂空間はある中心性を持っている。聖堂の建築形式を問わず、聖堂はある空間的な中心(つまりキリストのおわす場所)を備えているのである。そして聖堂全体の空間構成や装飾はその中心へと向けて組織されていくのだ。

さて、フィレンツェの大聖堂の巨大な内部空間では、どこかそうした中心への意識が希薄である。いわばそこにはただ、圧倒的な空気のヴォリュームだけが存在しているようなのである。確かに荘厳さや巨大さでは、サン・ピエトロ大聖堂のほうが上だ。だが、このヴォリューム感はサン・ピエトロ大聖堂にないものなのだ。そしてその理由はなにやらとてもシンプルなものだったように思う。多分、完成したら想像していたより大きかったのだ。つまり、ブルネレスキの発明した数々の技術が結果的に、当時の人間の想像を越えるスケールのものを作り上げてしまったのである。そのおおらかなヴォリューム感はまさに人間中心の自由なルネサンス文化の先駆けとなった。

我々はそこに技術が時代を、「もの」が「人間」のコントロールを超えた現場を見ることができるように思う。確かに大聖堂の全体はブルネレスキの手によるものではない。だが、この空気の質が、革新的ともいえるブルネレスキの巨大ドームによるものであるのは疑いようがない事実だ。

技術は時に人間の想像力を凌駕するものを作り上げてしまう。つまるところ建築は常に人間の他者なのだ。だがそれもまた、建築の可能性の一側面であるのだろう。