中島哲也 『嫌われ松子の一生』  現代におけるリアルさとは

少し前に中島哲也監督の『嫌われ松子の一生』を見た。
映像、編集に全く隙のない、そして映画という形式を限界まで使い切った渾身の力作である。

この映画はラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』同様、多くのミュージカルシーンが挿入されている。この作品に、小説という形式の原作があるため、ミュージカル仕立てという形式を採用することで、映画という形式ならではの表現が目指されている。

中谷美紀演じる松子は社会に流され、転落していく。救いようのない現実にもかかわらず、松子は夢を見ることを止めない。陰惨なストーリーがテンポのよい進行とミュージカルシーンによって、重さを感じさせない映画として仕上がっている。しかし、このミュージカルのシーンが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』での扱いとずいぶんと異なっているようだ。

ダンサー・イン・ザ・ダーク』におけるミュージカルのシーンは主人公セルマの夢である。息子のために、結果的に罪に問われるセルマは、悲惨な現実の中で自らの夢に浸る。そこでは厳然たる夢と現実の二項対立が維持され、物語はセルマの夢とリアルな現実との間を往復しながら進行していく。そしてその対比が、物語の悲哀をより際立たせることになる。楽しいシーンがあるがゆえに悲しい、そんな映画なのである。

だが、『嫌われ松子の一生』では、リアルなドラマシーンがそのままサイケな色彩のミュージカルシーンへとなだれ込んでいく。そこにはリアルとヴァーチャルの境目が存在しない。なにが現実で何が空想なのか、そこにはそもそもそうした区別が存在していないのだ。

また、陰惨なストーリーと明るいミュージカルの映像が一つの作品に同居していることが、一つの作品としての一体性をもたらしていないことも付け加えておきべきだろう。それは悲しい映画であり、そして楽しい映画でもありえているのだ。

そこでは、ストーリーとイメージが乖離している。でも、それは意図的なものだ。一つのストーリーの中で単線的な表現しかできない小説と異なり、映画というものがイメージの連鎖によって多重の表現が可能であることに自覚的なのだ。そして同時に、映画は所詮映画でしかない。つまり映画は確実な現実ではなく、ただの表現でしかない。そしてだからこそ映画という表現には可能性がある。この映画は全編を通じそんな問題意識に貫かれている。

そして、いささか深読みすれば、中島監督が社会とすれ違い続ける松子をこのような形式で描いたことは、より深い意味を持っているようにも思われる。現代は価値観が多様化した時代である。そして価値観が異なれば、世界の見え方も異なってくる。世界が我々の認識の上に立つ以上、そのことはもはや万人にとって間違いのない確たる現実など存在しないことを意味しているのだ。つまり、我々はリアルな表現がもはや唯一のリアルではありえない時代を生きている。この映画はそんな現実のもとに作られているのである。

2001年、あのツインタワーに突っ込んでいく飛行機を見たとき、我々にはあれが映画の一シーンであるように感じられた。我々は、もはや確実なリアルなど存在しない時代、ヴァーチャルとリアルが混在する情報時代を生きているのかもしれない。