アルベルト・ジャコメッティ 「ある」ことを捉えること

アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)の回顧展を兵庫県立美術館で見る機会があった。
ジャコメッティは細長い人体のブロンズ像で有名な彫刻家・画家である。シュールレアリズムから出発したジャコメッティは、具象的な人体像へと転向して以降、ただひたすら「見る」ことと向き合い続け、圧倒的な作品を作り上げてきた。

具体的なものからはじめる芸術家にとって、「見る」ことと「作る」ことの間、「見えるもの」と「作るもの」との間には、深い隔たりがある。多くの芸術家は「作るもの」が「見えるもの」と似ているように技巧を凝らして作品を作り、その隔たりを埋めようとする。だが、見え方や視覚的な効果を考えながら作品を作るとき、「作る」ことは「見える」ことに奉仕しているのではないか。いわば、作品はそう見えるように作られているのだ。それは絵画という表現、彫刻という表現でしかない。
             
だが、ジャコメッティのアプローチはそれとは異なっている。彼は自らが見えるものを見える通りに作る。そこでは、見ることと作ることの隔たりは、意図的に埋められることはない。真摯に見えることが作ることへとつなげられていく。ジャコメッティ肖像画において、人物の顔の上にはたくさんの線が錯綜している。だが、そこには輪郭線にあたる線は存在しない。なぜなら、輪郭線とは実際にはない線、絵画の見え方を考えて人工的に引かれた線でしかないからだ。ジャコメッティは白いキャンバスに線を刻み込み、空白を充填し、人間の顔を浮かび上がらせる。あるいは、針金に石膏を肉付けし、人体のヴォリュームを創出する。それは、表現ではない。絵画という存在、彫刻という存在であるのだ。では、ジャコメッティは何を見て、何を作ったのだろうか。

ジャコメッティの人体の絵画は常に正面から描かれている。絵画の焦点は人物の顔におかれ、手や服といった部分に注意が払われることはない。モデルはほとんどの場合、画家に正対して、ただ座っているだけだ。そこには一切の動きの兆候は存在していない。彫刻においてもそれは同様だ。細長い人体像にしろ、晩年の胸像にしろ、それらはただ「ある」だけであり、そこには一切の動きは存在しない。そのため見る側からしても、その絵画や彫刻はもはや特定のコンテクストやシーンに重ねられて理解されることはない。たとえば、「怒り」というタイトルで体をくねらせる彫刻があれば、我々はそれを怒りの表現だとして、作品に自分の認識を重ね、納得するだろう。だが、ジャコメッティの作品には、そのように認識を固定できる動きや表情といった、手がかりが存在しない。ジャコメッティは人間の一瞬の動きや様態を捉えるのではなく、ただ人間がそこに「ある」ことを捉えている。また、人間にはある輪郭があるように思えるが、瞬間瞬間の人間は常に異なっており、人間の像とはある時間の連続の中で、見出されているものに過ぎない。ジャコメッティは特定の瞬間の輪郭をなぞるのではなく、そこにあり続けるものを作り出す。

言い換えれば、ジャコメッティの作品には時間軸がない。作品はただそこに永遠としてある。瞬間ではなく、存在を捉えることで、ジャコメッティの作品は人間という持続する存在が持つであろう、潜在的なものを明らかにするのである。